新制作展 思い出すままに
団体展への出品の動機はさまざまであろう。公募展離れの進む昭和44年頃であったが、大学の師が小磯良平先生ということで、私は同期の仲間と、当然のように新制作展へ出品した。
団体展の功罪もいろいろあって、個人の思惑と集団の多数決原理とは折り合うわけもなく、出品者はそれぞれになにかしら、あつれきや悲哀というものを味わうもののようだ。私にとっての新制作展は、いろいろな人との出会いと絵に対するロマンの追求ということでとても大事な場だったように思う。
新制作展に出品して三年目のことだ。大学の助手をしていた関係で、そろそろ賞でももらわないと格好がつかないという状況にあった。当時私はアクリル絵の具でコンプレッサーを吹き付けて描いていて、何か新しい技法やイメージはないかと模索していた。あれやこれやエスキースを描いては悩み、画集や海外からの美術雑誌をめくる日々が続いた。ようやく一点の方はハンモック、もう一つは化粧する女性とおぼろげに決まった。そんな折り、学生の引率で関西に古美術研修に出かけたときのことだった。通りがかった京都駅のホームで貨物車両の大きなネットが目に入った。普通な何でもない駅の風景の一コマなのだろうが、キャンバスに吹き付ける材料で頭がいっぱいのときだったので、気がついたときには私はそのネットを旅行鞄の中に入れていた。相当な重量で持って帰るのに一苦労したことを覚えている。
もう一点の方は化粧の絵だ。当時、資生堂からでていた「花椿」という小冊子を集めては研究していたものだ。思案の末デパートの下着売り場でシュミーズとブラジャーを買うことにした。絵に使うとはいえ女性の下着を買うのはやはり恥ずかしかった。夏になると大学は休みとなり、助手たちは思いっきりアトリエで仕事ができる。1998年7月に急逝した奥村光正氏とは同期の助手仲間で彼とよく大学に泊まり込み徹夜で制作に打ち込んだものだった。そんな苦労が実ったのか、その秋の展覧会で初めて新作家賞をいただいた。
その後ヨーロッパに留学して出品はとぎれたが、帰国して六年ぶりに、気負いと意欲を込めて三点出品した時のことだ。ヨーロッパでの研鑽の意味を問うつもりだったのだが、無情にも一点しか通らず、小磯先生に思わず愚痴を言ってしまった。実は一点で受賞していたことを後で知ったのだが、先生は御存じだったのだろう。困ったような顔をして黙って聞き流してくださった。翌日、初日のパーティで先生はにこにこしながら「鳴いたカラスがもう笑ってる」と皮肉って言われた。
新制作展では小磯良平先生を始め亡くなられた多くの先輩にお世話になった。竹谷富士雄先生、一緒にスケッチしてくださった石川滋彦先生、ヨーロッパでの麻田浩さん、よく飲みに連れていってくださった山東洋さん。いまでも新制作展は私にとって、良き諸先輩との邂逅と、絵に対するロマンの追求との大切な場には変わりがない。

新制作協会 しんせいさくきょうかい
昭和11年(1936年)当時の社会状況が戦時体制に傾斜しつつある頃、新制作協会(発足時:新制作派協会)は誕生した。当時の文部省当局が美術団体を改組しようとして、美術界が混乱した渦中に、自由と純粋さを求めて立ちあがった、若き9人の青年画家、猪熊弦一郎、伊勢正義、脇田和、中西利雄、内田巌、小磯良平、佐藤敬、三田康、鈴木誠により、結成された。 そして、創立3年後の昭和14年に志しをともにする本郷新、山内壮夫、吉田芳夫、舟越保武、佐藤忠良、柳原義達、明田川孝の7名の新進彫刻家の参加により、彫刻部が設けられた。 戦後には建築部、池辺陽、岡田哲郎、丹下健三、吉村順三、山口文象、谷口吉郎、前川国男の7名(現:スペースデザイン部)そして日本画部(後の創画会)が合流。現在は、絵画、彫刻、スペースデザインの三部門を持つ。

