忘れ得ぬ刻
小磯良平、山口薫、林武、牛島憲之、脇田和・・・。私が芸大に入った頃の教授陣には日本の洋画界の巨匠というべき錚々たる人たちが名前を連ねていた。世間ではポップアートや抽象表現主義の旋風が吹き荒れていたが、まだ学内では人物の構成が主流だった頃だ。
私は三年次の山口教室から四年次に小磯教室に友人二人とクラスを変わった。いろいろ理由はあったのだが、前代未聞、ほんとうに山口先生には失礼なことをしたと思っている。しかしながら、今にして思えば両巨匠と接することのできた、なんと貴重な体験ではなかったか。
大学院の頃から友人たちと神戸の小磯先生のお宅に伺うようになった。絵の話、ゴルフの話など、珍しい画集を拝見しながら楽しいひとときをすごし、帰り際にアトリエを少しのぞかせていただくのが楽しみだった。描きかけの油彩やパステルなど、清楚でシックで典雅な雰囲気全部が小磯良平先生そのものだった。何度目かで気がついたことだが、アトリエのドア付近にスケッチの下絵らしき紙のビルディングが乱立していて、その量の多さにびっくりしたものだ。
小磯先生のお供で助手として奈良の古美術研究旅行に行った折。ある晩、寮での食事の後、先生の部屋で何人かとウイスキーを飲みながらダートゲームをしてくつろいでいたときのことだ。先生は何を思われたか「佐藤君、そこに立って」と言われスケッチの紙と鉛筆をとられた。何分くらいだったか、四、五分か十分か、あまり長くはなかった。さらさらとスケッチをされ「ハイ」とそのデッサンを私にくださった。ヒッピーのような長い髪の毛。シャツの袖をまくってポケットに手を突っ込み、少し下を向いたポーズで、1970 R.KOISOとサインが入っていた。不思議な感動の時間だった。今でもその想い出のデッサンは大切な宝物として私のアトリエに掛かっている。
法隆寺や東大寺、小磯先生が一緒ということもあり例年になく学生たちはスケッチをしていた。そんなある時、めったに強要しない先生から「佐藤君も描いてみたら」と言われてしまったのである。不詳の助手としては何年ぶりかのスケッチで手が滑ってうまくいかない。四苦八苦した後、先生に見ていただくと、「いいじゃない」と軽い調子で一言いわれたきりであった。こちらとしては何か指導を期待していたので、かえってこの何気ない言葉は胸に残った。
昭和六十三年、先生は亡くなられた。十二月十六日、お通夜の晩、私は先生のデスマスクを描いた。寒い夜だった。ガタガタ震えながら一生懸命描いた。私はたくさんの人から色々影響を受けてきたが、もっとも大きな影響を受けた師の一人は小磯先生である。毎日描くことはもちろん、一本の線にかける気持ちの大切さを自覚し、実現して生きたいと思っている。

小磯 良平 こいそ りょうへい
1903年7月25日 - 1988年12月16日
昭和期に活躍した、日本を代表する洋画家。
東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画科に進み、猪熊弦一郎・岡田謙三・荻須高徳らの同級生と画架を並べる。在学中に「兄妹」(1925年)が帝展入選、「T嬢の像」(1926年)が帝展特選を果たす。首席で卒業後の1928年、フランスに留学。ルーブル美術館のパオロ・ヴェロネーゼ「カナの婚礼」に衝撃を受け、群像表現を極めることを生涯のテーマとした。帰国後の1936年、「新制作派協会」(現・新制作協会)の結成に加わる。
戦後は東京芸術大学教授などを務めて後進の指導にあたり、定年退官後も迎賓館(赤坂)大広間の壁画「絵画」「音楽」を制作するなど長きにわたり日本の洋画界に大きく貢献した。

